至聖所というのは、自意識やエゴも含まれる。
里の行も、十分な意味を持つということがあるのだ。
砂漠から金のクリシュナ神像。
山から風のシヴァ神像。
宙から星のブラフマー神像。
右を意識していれば、左は自ずと合ってくる。
お前は狂気の映し鏡としてはならない。主・客共に。
世界にお前の狂気を反映させてはならない。
「実際には、ヨギというのは、聖者じゃよ。」。…ヨギも聖者。
あまり無体なことをしていると、どこかから、反感ののろしが上がってしまうでしょう。反感ののろしが上がっていないということは…!!
かつての物質主義の時代では、物質についても、修行の一つ。
理想の愛の形、リ一ラ。
それだけで、十分。
自分に於いて、不要になった境地を捨て去ることは、1つの行ではないか??
人は、どれだけ疲れても、真の明晰化(めいせきか)の祈りというのができると、疲れが取れちゃう。
ビジネスの世界と三密加持(さんみつかじ)の世界の両立に表されるように、この物質界というものにも多くがあるんだよ。
マザーテレサの後ろ立ち姿、
それを凌駕するシルディサイババの座り姿。
現代世界で聖者は何処?